2名の方々が来宅
3度目の対話となる。矢沢氏が岡田氏(女性)とともに来宅。
【対話の要趣】
前回の正木の、1「本門戒壇の大本尊はにせもの」と、2「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。」との発言の答えを持参したとの事であった。
<双方の言い分の要約>
矢沢氏の主張
1.の問題については、「日蓮正宗入門」を示して、その中の【聖人御難時】の一節
「此の訪門申しはじじめて今に二十七年、弘安二年なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」を文証としてあげて、出世の本懐として「本門戒壇の大本尊」を顕されたと主張した。
正木 : 「弘安二年に聖祖が出世の本懐を遂げられたという事はその御文ではっきりした。しかし、その出世の本懐は将来本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大本尊と拝されるが、それが何かは明記されていない。」
矢沢 : 「本門戒壇の大御本尊の事である。」
正木 : 「大石寺の云う本門戒壇の大御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊(板本尊)の事であろうが確証がない。」
矢沢 : 「。。。」
正木の主張
弘安二年には、二つの大御本尊があった。一つは、万年久護大御本尊(紙製)と、二つは一閻浮提総与大御本尊(板製)である。
万年久護については相伝がある。日蓮大聖人年表に、「弘安2年(1279年)11月に、【日興に文永11年(1274年)12月の本尊(万年救護本尊)を賜う。」と、日蓮高祖から日興上人への相伝が明らかに記されている。
また、日興跡条々事 元弘2年(1332年)11月10日に、
「 日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」とある。
身に宛て給わる大御本尊とあるので紙製の万年久護大御本尊の方と考察するのである。板製の一閻浮提総与大御本尊は重くて身に宛てる事は出来まい。
また、万年久護には御讃文がある。【大覚世尊後入滅後経歴二千二百二十余年唯示月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以佛智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之】というのである。
しかし、一閻浮提総与については相伝がない。ただ、昭和27年4月28日発行の創価学会版の御書には「弘安二年十月、戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とあり、平成6年7月16日発行の大石寺版の御書には「弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を造立す」と、後から付け足した事が歴然とするような記載がある。不審の第一は、日蓮正宗五十九世法主堀日亨上人が編纂した創価学会版の御書と日蓮正宗大石寺版の御書の記述に差別がある事である。一致していなければ正しくない。
弘安二年当時は、広宣流布は夢の先、三祖ともに【本門戒壇の大御本尊】とか【一閻浮提総与】と云う名を記すはずはない。日興上人も「大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」とだけ言っている。
いや、昭和二十年までは【戒壇の大御本尊を万年の為】とか【本門戒壇の大御本尊】とか云う表現は用いられていなかった。わずか1万数千の檀家衆の大石寺が、創価学会の広宣流布の時流に乗って数十万、数百万の信者を抱えて、気宇壮大となってから、【一閻浮提総与大御本尊】と呼ぶ様になったはずである。
もっとも、板本尊そのものは九世日有上人時代に既に忽然と顕われていた。がしかし、二十六世日寛上人の代まで板の大御本尊が話題にも上らなかった。
大石寺の板大御本尊には、【一閻浮提総与】とか【本門戒壇の大御本尊】などとは何も書いて無い。日蓮高祖の御讃文は全く無い。相伝も無い。ただあるのは【弥四郎国重】なる正体不明の対告衆が記されているのみである。弥四郎国重は国民を代表する者と聞いたが、そんな曖昧な大御本尊はあるべき事ではない。
2.の問題「四代日道上人への血脈相乗がなかった。」についての問答は、長文と成るのでここでは割愛して「日蓮直宗ページ」で後日明かす。
今度は私の方から、後日、八木日照法道院住職と対話に行くと約束をして別れた。
【対話の要趣】
前回の正木の、1「本門戒壇の大本尊はにせもの」と、2「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。」との発言の答えを持参したとの事であった。
<双方の言い分の要約>
矢沢氏の主張
1.の問題については、「日蓮正宗入門」を示して、その中の【聖人御難時】の一節
「此の訪門申しはじじめて今に二十七年、弘安二年なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」を文証としてあげて、出世の本懐として「本門戒壇の大本尊」を顕されたと主張した。
正木 : 「弘安二年に聖祖が出世の本懐を遂げられたという事はその御文ではっきりした。しかし、その出世の本懐は将来本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大本尊と拝されるが、それが何かは明記されていない。」
矢沢 : 「本門戒壇の大御本尊の事である。」
正木 : 「大石寺の云う本門戒壇の大御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊(板本尊)の事であろうが確証がない。」
矢沢 : 「。。。」
正木の主張
弘安二年には、二つの大御本尊があった。一つは、万年久護大御本尊(紙製)と、二つは一閻浮提総与大御本尊(板製)である。
万年久護については相伝がある。日蓮大聖人年表に、「弘安2年(1279年)11月に、【日興に文永11年(1274年)12月の本尊(万年救護本尊)を賜う。」と、日蓮高祖から日興上人への相伝が明らかに記されている。
また、日興跡条々事 元弘2年(1332年)11月10日に、
「 日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」とある。
身に宛て給わる大御本尊とあるので紙製の万年久護大御本尊の方と考察するのである。板製の一閻浮提総与大御本尊は重くて身に宛てる事は出来まい。
また、万年久護には御讃文がある。【大覚世尊後入滅後経歴二千二百二十余年唯示月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以佛智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之】というのである。
しかし、一閻浮提総与については相伝がない。ただ、昭和27年4月28日発行の創価学会版の御書には「弘安二年十月、戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とあり、平成6年7月16日発行の大石寺版の御書には「弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を造立す」と、後から付け足した事が歴然とするような記載がある。不審の第一は、日蓮正宗五十九世法主堀日亨上人が編纂した創価学会版の御書と日蓮正宗大石寺版の御書の記述に差別がある事である。一致していなければ正しくない。
弘安二年当時は、広宣流布は夢の先、三祖ともに【本門戒壇の大御本尊】とか【一閻浮提総与】と云う名を記すはずはない。日興上人も「大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」とだけ言っている。
いや、昭和二十年までは【戒壇の大御本尊を万年の為】とか【本門戒壇の大御本尊】とか云う表現は用いられていなかった。わずか1万数千の檀家衆の大石寺が、創価学会の広宣流布の時流に乗って数十万、数百万の信者を抱えて、気宇壮大となってから、【一閻浮提総与大御本尊】と呼ぶ様になったはずである。
もっとも、板本尊そのものは九世日有上人時代に既に忽然と顕われていた。がしかし、二十六世日寛上人の代まで板の大御本尊が話題にも上らなかった。
大石寺の板大御本尊には、【一閻浮提総与】とか【本門戒壇の大御本尊】などとは何も書いて無い。日蓮高祖の御讃文は全く無い。相伝も無い。ただあるのは【弥四郎国重】なる正体不明の対告衆が記されているのみである。弥四郎国重は国民を代表する者と聞いたが、そんな曖昧な大御本尊はあるべき事ではない。
2.の問題「四代日道上人への血脈相乗がなかった。」についての問答は、長文と成るのでここでは割愛して「日蓮直宗ページ」で後日明かす。
今度は私の方から、後日、八木日照法道院住職と対話に行くと約束をして別れた。
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