4名の方々が来宅
先日、日蓮正宗法華講の方々が3名で拙宅へ訪来した。家庭訪問折伏にである。その際、縷々話合ったが決着がつかず本日の再来訪となった。
本日は、矢沢氏ほか3名(内女性1名)が来宅、狭い我が家で対話した。相手方は私のホームページのプロフィールだけ見て内容は見ていないという。なので日蓮直宗に対する質問は無かった。
【対話の要趣】
正木:「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。また、日郷上人へもなかった。」
矢沢 : 「相伝書はなかったが「内示があった。」
正木 : 「その証拠を示してほしい。」
矢沢 : 「、、、、、」
正木 : 「今度でいいから。」
矢沢 : 「日目上人ともあろう方が相伝を残さないわけがない。」
正木 : 「それは希望論である。内示云々なら日郷上人が内示があったともいえる。」
矢沢 : 「日郷上人がいっていたのか?」
正木 : 「日郷上人はいっていないが、内示ならそうもいえると言う事だ。」
矢沢 : 「日蓮正宗は法灯連綿と続いてきた。」
正木 : 「そんな事はない。60世の日開上人の時、論争と裁判沙汰が起きた。また、歴代の中に京都要法寺の謗法が入っている。」
矢沢 : 「、、、、、」明快な反論は無し。
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正木 : 「学会員と法華講員が御供養した350億円で建立した正本堂を未だ新しいまま解体してしまった日顕は万死に値する」
法華講員 : 「腐食して取り壊さなかったら危なかった。」
正木 : 「いいわけである。名のある建築家が設計した建物が2、30年しか保たないわけがない。」
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正木 : 「大石寺版御書の年表と日興跡条々事の文証を示しつつ【万年救護本尊】が日蓮-日興-日目と相伝書があるのに対し、【本門戒壇の大御本尊】は相伝書も口伝も存在しない故に偽物である。」
矢沢 : 「日興跡条々事の【弘安2年(1279年)の大御本尊】とは、本門戒壇の大御本尊の事である」
正木 : 「それは切り文の勝手な解釈である。全文は【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし】である。要は、【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊】とある所である。日興上人が身に当てていたのは紙の【万年救護本尊(106cm×57cm)】しかない。第一、あんなに大きな板本尊の【本門戒壇の大御本尊】を身に当てていられるわけがない。」
法華講員 : 「、、、、、」
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法道院は正木の御受戒を受けたお寺でもあるし、結婚式を法道院であげた時、早瀬総監に式を取り持ってもらった因縁ある寺院であった。そんなわけで和気あいあいと話は進んだが、噛み合わないことも多々あった。
今度は私の方から、八木日照住職に対話にいくと約束して別れた。
本日は、矢沢氏ほか3名(内女性1名)が来宅、狭い我が家で対話した。相手方は私のホームページのプロフィールだけ見て内容は見ていないという。なので日蓮直宗に対する質問は無かった。
【対話の要趣】
正木:「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。また、日郷上人へもなかった。」
矢沢 : 「相伝書はなかったが「内示があった。」
正木 : 「その証拠を示してほしい。」
矢沢 : 「、、、、、」
正木 : 「今度でいいから。」
矢沢 : 「日目上人ともあろう方が相伝を残さないわけがない。」
正木 : 「それは希望論である。内示云々なら日郷上人が内示があったともいえる。」
矢沢 : 「日郷上人がいっていたのか?」
正木 : 「日郷上人はいっていないが、内示ならそうもいえると言う事だ。」
矢沢 : 「日蓮正宗は法灯連綿と続いてきた。」
正木 : 「そんな事はない。60世の日開上人の時、論争と裁判沙汰が起きた。また、歴代の中に京都要法寺の謗法が入っている。」
矢沢 : 「、、、、、」明快な反論は無し。
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正木 : 「学会員と法華講員が御供養した350億円で建立した正本堂を未だ新しいまま解体してしまった日顕は万死に値する」
法華講員 : 「腐食して取り壊さなかったら危なかった。」
正木 : 「いいわけである。名のある建築家が設計した建物が2、30年しか保たないわけがない。」
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正木 : 「大石寺版御書の年表と日興跡条々事の文証を示しつつ【万年救護本尊】が日蓮-日興-日目と相伝書があるのに対し、【本門戒壇の大御本尊】は相伝書も口伝も存在しない故に偽物である。」
矢沢 : 「日興跡条々事の【弘安2年(1279年)の大御本尊】とは、本門戒壇の大御本尊の事である」
正木 : 「それは切り文の勝手な解釈である。全文は【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし】である。要は、【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊】とある所である。日興上人が身に当てていたのは紙の【万年救護本尊(106cm×57cm)】しかない。第一、あんなに大きな板本尊の【本門戒壇の大御本尊】を身に当てていられるわけがない。」
法華講員 : 「、、、、、」
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法道院は正木の御受戒を受けたお寺でもあるし、結婚式を法道院であげた時、早瀬総監に式を取り持ってもらった因縁ある寺院であった。そんなわけで和気あいあいと話は進んだが、噛み合わないことも多々あった。
今度は私の方から、八木日照住職に対話にいくと約束して別れた。
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