2011年10月17日月曜日

日蓮正宗法道院との対話-3

法道院にて午後1時30分より6時30まで

日蓮直宗は正木日療一人。
法道院側は八木日照住職(日蓮正宗総監)、矢島講頭、沖田氏他4名。

以下に相方の主張の要趣をまとめた。敬称は略す。
B_No_01.gif日療
問う。大石寺が本門戒壇の大御本尊と主張する【一閻浮提総与大御本尊】は九世日有上人時代に建立された板曼荼羅であり日蓮聖祖の御作ではない。有師の贋作である。その故は、有師以前の宗祖より八世日影上人までと、有師以後の二十六世日寛上人までの間、誰もその存在について言及してないし、また相伝書も全く無いからである。
本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大御本尊であるなら有師と寛師の二人しか記さず、以後、40世以降の歴代にわずかに記事が認められるというのは可笑しい。その事はいかがか。
B_No_06.gif矢島ほか4名。この時は日照住職は在席しなかった。
矢島氏は私の問いには答えないで、【聖人御難事】の「此の法門申しはじめて今に二十七年•弘安二年なり、仏は四十余年•天台大師は三十余年•伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各々かつしろしめせり。」の御文を引いて、弘安二年に出世の本懐を遂げたというのは【本門戒壇の大御本尊】であると主張。その証拠は日興跡条々の事の「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」であるとした。
B_No_01.gif日療
「弘安二年の大御本尊、、、本門寺に懸け奉るべし」は二通りの解釈ができる。大石寺版御書年表に記載された弘安二年の大御本尊は二つある。一つは弘安2年10月12日「本門戒壇の大御本尊を造立す」であり、二つは弘安2年11月25日「日興に上行所伝三大秘法口決を相伝す」の後に「日興に文永11年12月の本尊(万年久護大御本尊を給う」である。
【聖人御難事】の其の御文には、二つのどちらとも明記されておらず、それを「本門戒壇の大御本尊」と断ずるのは我見である。
B_No_06.gif沖田
万年久護大御本尊は文永11年の作である。弘安二年の御本尊ではない。
B_No_01.gif日療
日蓮聖人は文永8年9月12日の竜の口の法難後、2年間に及ぶ佐渡流罪を経て、文永11年3月8日幕府の赦免状を得、4月8日平左衛門尉頼綱に第三回国家諫暁を果したが幕府は用いない。「三度諌めて用いずば去る」の古事にならい6月17日身延の沢に庵室を成し、弘教を後世の弟子に託した。そして万人救済のために文永11年12月に顕されたのが【万年久護大御本尊】である。
日蓮一期の弘法の総決算である其の大御本尊を、弘安二年、後事を託せる弟子日興を得て、上行所伝三大秘法口決の相伝とともに日興に与えて出世の本懐を遂げられたのである。
B_No_06.gif矢島
「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」の大御本尊は【本門戒壇の大御本尊】である。
B_No_01.gif日療
大石寺の義によれば、弘安2年9月21日、駿河熱原の農民、神四郎等20人が竜泉寺行智等に讒せられて幕府に送られる熱原法難が起きて、それを不憫に思った日蓮聖人は「弘安2年10月12日本門戒壇の大御本尊を造立した」としている(大石寺版御書年表)。
しかし、59世堀日亨上人監修の創価学会版年表によれば「弘安二年十月戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とだけある。そして、その御本尊は又の名を「一閻浮提総与の大御本尊」とも云って対告衆は弥四郎国重という実在しない架空の人物なのである。
果たして、本当に日蓮聖人はそのような状況の中で、死罪となった三人を悼んで大御本尊を造立されたのであろうか? そして誰に相伝したと云うのか。相伝書も記載もない。
しかも、その後1ヶ月余り経った弘安2年11月25日、日蓮聖人は後事を託す弟子として日興上人を定めて上行所伝三大秘法口決を相伝し万年久護大御本尊を授与したのは何故であろうか。よく思索すれば大石寺義に無理があるのが解ると思う。
B_No_06.gif法道院側5人
この点に関して明快な答えはなかった。
B_No_01.gif日療
東坊(蓮蔵坊)地をめぐる72年の係争については、郷師は東坊地一帯を、東坊敷地地頭の南条五郎左衛門時綱(南条時光の五男)より正式に寄進されている。それなのに道師(西坊)側は郷師を追い出すとはひどい。
B_No_06.gif日照住職
郷師が東坊(蓮蔵坊)地にただ住んでいるだけだったら問題は無かった。しかし、新御堂を建立して対抗したので追い出された。
B_No_01.gif日療
さしたる法義上の争いは無いのだから仲良くして行けなかったのだろうか。西坊敷地地頭の南条三郎左衛門(南条時光の三男)と五郎左衛門時綱との、南条家の家督相続争いに巻き込まれた気がする。
B_No_06.gif日照住職
その通りだと思う。
B_No_01.gif日療
日蓮直宗の目的は、寺院や会館を創って信者から金品の御供養を受けることでは全く無い。保田妙本寺の万年久護大御本尊(本門の本尊)を大石寺の戒壇堂(本門の戒壇)に掛け創価教育学会の牧口常三郎の題目(本門の題目)を唱える事である。即ち、三大秘法を成就する事が唯一の目的である。
B_No_06.gif6人
無言であった。

日蓮正宗法道院との対話-2


2名の方々が来宅

3度目の対話となる。矢沢氏が岡田氏(女性)とともに来宅。
【対話の要趣
前回の正木の、1「本門戒壇の大本尊はにせもの」と、2「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。」との発言の答えを持参したとの事であった。
<双方の言い分の要約>
矢沢氏の主張
1.の問題については、「日蓮正宗入門」を示して、その中の【聖人御難時】の一節

「此の訪門申しはじじめて今に二十七年、弘安二年なり、仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」を文証としてあげて、出世の本懐として「本門戒壇の大本尊」を顕されたと主張した。

正木 : 「弘安二年に聖祖が出世の本懐を遂げられたという事はその御文ではっきりした。しかし、その出世の本懐は将来本門寺の戒壇堂にかけ奉るべき大本尊と拝されるが、それが何かは明記されていない。」
矢沢 : 「本門戒壇の大御本尊の事である。」
正木 : 「大石寺の云う本門戒壇の大御本尊とは一閻浮提総与の大御本尊(板本尊)の事であろうが確証がない。」
矢沢 : 「。。。」

正木の主張
弘安二年には、二つの大御本尊があった。一つは、万年久護大御本尊(紙製)と、二つは一閻浮提総与大御本尊(板製)である。

万年久護については相伝がある。日蓮大聖人年表に、「弘安2年(1279年)11月に、【日興に文永11年(1274年)12月の本尊(万年救護本尊)を賜う。」と、日蓮高祖から日興上人への相伝が明らかに記されている。

また、日興跡条々事 元弘2年(1332年)11月10日に、
「 日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」とある。
身に宛て給わる大御本尊とあるので紙製の万年久護大御本尊の方と考察するのである。板製の一閻浮提総与大御本尊は重くて身に宛てる事は出来まい。

また、万年久護には御讃文がある。【大覚世尊後入滅後経歴二千二百二十余年唯示月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以佛智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之】というのである。

しかし、一閻浮提総与については相伝がない。ただ、昭和27年4月28日発行の創価学会版の御書には「弘安二年十月、戒壇の大御本尊を末法万年の為に書示せらる」とあり、平成6年7月16日発行の大石寺版の御書には「弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊を造立す」と、後から付け足した事が歴然とするような記載がある。不審の第一は、日蓮正宗五十九世法主堀日亨上人が編纂した創価学会版の御書と日蓮正宗大石寺版の御書の記述に差別がある事である。一致していなければ正しくない。

弘安二年当時は、広宣流布は夢の先、三祖ともに【本門戒壇の大御本尊】とか【一閻浮提総与】と云う名を記すはずはない。日興上人も「大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」とだけ言っている。

いや、昭和二十年までは【戒壇の大御本尊を万年の為】とか【本門戒壇の大御本尊】とか云う表現は用いられていなかった。わずか1万数千の檀家衆の大石寺が、創価学会の広宣流布の時流に乗って数十万、数百万の信者を抱えて、気宇壮大となってから、【一閻浮提総与大御本尊】と呼ぶ様になったはずである。

もっとも、板本尊そのものは九世日有上人時代に既に忽然と顕われていた。がしかし、二十六世日寛上人の代まで板の大御本尊が話題にも上らなかった。

大石寺の板大御本尊には、【一閻浮提総与】とか【本門戒壇の大御本尊】などとは何も書いて無い。日蓮高祖の御讃文は全く無い。相伝も無い。ただあるのは【弥四郎国重】なる正体不明の対告衆が記されているのみである。弥四郎国重は国民を代表する者と聞いたが、そんな曖昧な大御本尊はあるべき事ではない。

2.の問題「四代日道上人への血脈相乗がなかった。」についての問答は、長文と成るのでここでは割愛して「日蓮直宗ページ」で後日明かす。

今度は私の方から、後日、八木日照法道院住職と対話に行くと約束をして別れた。

法道院の戸別訪問折伏を受けて対話-1

4名の方々が来宅

先日、日蓮正宗法華講の方々が3名で拙宅へ訪来した。家庭訪問折伏にである。その際、縷々話合ったが決着がつかず本日の再来訪となった。

本日は、矢沢氏ほか3名(内女性1名)が来宅、狭い我が家で対話した。相手方は私のホームページのプロフィールだけ見て内容は見ていないという。なので日蓮直宗に対する質問は無かった。

【対話の要趣
正木:「三代日目上人の急死で四代日道上人への血脈相乗がなかった。また、日郷上人へもなかった。」
矢沢 : 「相伝書はなかったが「内示があった。」
正木 : 「その証拠を示してほしい。」
矢沢 : 「、、、、、」
正木 : 「今度でいいから。」
矢沢 : 「日目上人ともあろう方が相伝を残さないわけがない。」
正木 : 「それは希望論である。内示云々なら日郷上人が内示があったともいえる。」
矢沢 : 「日郷上人がいっていたのか?」
正木 : 「日郷上人はいっていないが、内示ならそうもいえると言う事だ。」
矢沢 : 「日蓮正宗は法灯連綿と続いてきた。」
正木 : 「そんな事はない。60世の日開上人の時、論争と裁判沙汰が起きた。また、歴代の中に京都要法寺の謗法が入っている。」
矢沢 : 「、、、、、」明快な反論は無し。
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正木 : 「学会員と法華講員が御供養した350億円で建立した正本堂を未だ新しいまま解体してしまった日顕は万死に値する」
法華講員 : 「腐食して取り壊さなかったら危なかった。」
正木 : 「いいわけである。名のある建築家が設計した建物が2、30年しか保たないわけがない。」
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正木 : 「大石寺版御書の年表と日興跡条々事の文証を示しつつ【万年救護本尊】が日蓮-日興-日目と相伝書があるのに対し、【本門戒壇の大御本尊】は相伝書も口伝も存在しない故に偽物である。」
矢沢 : 「日興跡条々事の【弘安2年(1279年)の大御本尊】とは、本門戒壇の大御本尊の事である」
正木 : 「それは切り文の勝手な解釈である。全文は【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし】である。要は、【日興が身に宛て給わる所の弘安2年(1279年)の大御本尊】とある所である。日興上人が身に当てていたのは紙の【万年救護本尊(106cm×57cm)】しかない。第一、あんなに大きな板本尊の【本門戒壇の大御本尊】を身に当てていられるわけがない。」
法華講員 : 「、、、、、」
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法道院は正木の御受戒を受けたお寺でもあるし、結婚式を法道院であげた時、早瀬総監に式を取り持ってもらった因縁ある寺院であった。そんなわけで和気あいあいと話は進んだが、噛み合わないことも多々あった。

今度は私の方から、八木日照住職に対話にいくと約束して別れた。

2011年10月14日金曜日

家庭菜園の危機

今年に入って自給自足生活をより徹底しようと考えていた。3月から撒く野菜の無農薬種を買って用意していた時の、あの11日の東北の地震と津波と福島原発事故である。政府報道官の放射能漏れに関する甘い観測と希望的な過小評価にのせられて東京までは放射性物質は飛んで来ないだろうと考えていた。しかし気になって3月〜5月に撒くべき種を蒔かずにいた。種蒔き時期を失したので、6月上旬近くの花屋かやパセリ、大葉、オクラ、苦瓜、バジル、ローズマリー、ミニトマト等の苗を買ってきて植えた。そしてパセリ、大葉、オクラ、バジル、ローズマリー等は7〜8月によく食べた。放射線量は非常に少ない数値だろうと勝手に決めつけて安心していた。

所がである、

 10月11日 東京奥多摩セシウム10万Bq汚染、除染必要地域は日本の3%など 小出裕章(MBS)  

とか、

 10月12日 世田谷区で高線量検出、横浜ストロンチウム検出、福島県知事「米の安全宣言」等について 小出裕章(MBS)  


のtwitter記事を読んでびっくりした。我が家の庭はブロック塀に囲まれた6坪ほどの小園である。雨に含まれた放射能物質が集まって凝縮されている可能性が非常に高いのだ。9月下旬には人参、大根、カブ、白菜などの種を蒔いた。

今までは過小評価して安心して食べていたが、もう食べれない。